実業団では欲張って練習の質と量も求めた
高校3年間で意識してきたのは、自分の身体と向き合うこと。練習は自主性に任せられる部分が多かったこともあり、筋肉に異変を感じれば、自らでペースを落とし、強度もセーブしていました。脚に疲労が溜まると、すぐに気づきました。
「疲れが蓄積すると、少しバネがなくなり、腰の位置が低くなるんです。ランニングフォームで分かりました。一歩の歩幅がいつもより狭くなるのもそう。足が前に出しにくい状態になりました。スピードに乗りたいけど、身体が乗ってこない。上体が安定しない感じです。疲れると、走る足音もうるさくなるんです。いま挙げたように、いくつか判断材料はありました」
高校時代はケガとは無縁。強いてあげれば、足の指の皮がめくれ、マメがつぶれたくらいです。チームメイトは毎週のように治療院などに通うなか、小林さんは近所の温泉施設に足を運んでいました。毎日のストレッチを欠かさなかったこともありますが、それだけではありません。脚を酷使しなかった影響は、はかり知れないと言います。
「毎週、日曜日はオフでした。そのたびにスーパー銭湯で温冷交代浴をして、お気に入りのおじさんマッサージ師に筋肉をほぐしてもらっていました。疲労した筋肉を回復させるためには、休息が一番だと思います」
高校卒業後は岡山大学に通いながら、実業団の豊田自動織機に所属。要所で外部のトレーナーにサポートしてもらい、食事は栄養士が管理していました。恵まれた環境で競技を続けていましたが、知らない間に身体は消耗していました。高校時代は練習で満腹感を感じることはなかったものの、この時期にはいつしか苦しくなるまで走っていました。
「自分で休む判断はできたのに、自分から走りに行っていました。高校時代に結果を出して、さらに上を目指さなければいけない状況だったこともあります。スタイルを変えずに練習の質を上げていけば良かったのですが、量まで増やしてしまった。欲張って、両方を求めてしまったんです」
2008年には小学校の卒業アルバムに書いた夢の北京オリンピックに出場し、2009年にはベルリン世界選手権の舞台でも戦ったものの、身体は限界に近づいていたのです。2009年以降は椅子に座るだけで腰に痛みを感じるようになっていました。坐骨神経痛を引き起こす梨状筋症候群(りじょうきんしょうこうぐん)だったのです。新幹線で大阪から東京に移動するのも難儀、大学で座って授業を受けるのも辛い。どこに行くのにもゴルフボール、テニスボールを持ち歩き、時間を見つけて太ももの裏に置いて、筋肉をほぐす毎日。トレーナーさんに勧められてポケット式の低周波治療器も携帯していました。ある日、歯科医院で親知らずを抜歯するために麻酔を打ったときにがく然としました。
「全身に麻酔が効いたのか、腰の痛みも消えたんです。これが普通の身体なのかと思うと、余計に落ち込んでしまって……。私の場合、神経痛だったので、我慢すれば走れていたんです。ただ、100%のパフォーマンスは出せなかった。身体だけは昔の良かった感覚を覚えているのですが、そこにはもう戻れなかったです」